朝ドラ「カムカムエヴリバディ」が昨日ついに最終回を迎えました。
まさに絵に描いたような大団円! 番組のもうひとつのテーマソングともいうべき「Sunny Side of the Street」が 流れる中、ひなたとビリーが共に歩いていく後ろ姿・・・(後ろ姿ってのがまたなんともいえずええねんw) 嗚呼、なんて粋なエンディングでしょう。それに続くヒロイン3人の最高の笑顔の写真! さて、カムカムに森山良子扮するアニー・ヒラカワこと安子ローズウッド(1925~)が登場して以来、次第にアニーが我が叔母とオーバラップするようになった。 というのも、最初はアニーが安子かどうかわからなかったでしょ。 巷ではアニーは安子じゃない、安子はもう死んでいるとか、実は渡米せずに(ロバートとは結婚せずに)岡山に住んでいたとか、カンカンガクガクの大論争w ただ、それこそ容易に「洋行」などできなかった時代、一文無しの安子が渡米するにはロバートとの結婚が必須(らしい)、という意見をネットで読み、そうだったのか・・・!と腑に落ちる一件が叔母のこと。 母の妹であるS子叔母(1930~2018)は、安子より5歳年下で、安子の渡米(1951から遅くとも1952年までには)から遅れること5年後の1957年2月にアメリカ人と結婚するために渡米しました。 姪である私は1986年の大学の夏休み期間、ニューヨークのクイーンズ地区にあった叔母宅に約2ヵ月お世話になりました(といっても、うち1ヵ月はいわゆる「サマーキャンプに」強制収容wされてたんだけど)。 だから覚えているんだけど、その年の12月、母が叔母と国際電話で話していて、どうやら叔母夫婦は結婚30周年を迎えたらしい。 叔母は結婚前、今はなき大阪女子大学(2005年に大阪府立大学に統合された)を出て中学校の英語の先生をしていました。 だからある程度英語の素地ができていたとはいえ、それでも相当な苦労があったようで、ウチの母など「よく(30年も)もったねー」と心底感服していたくらいw そういったことがあったので、私はてっきり二人が結婚したのは1956年12月だと思っていたのです。 しかし2018年に叔母が亡くなった後、我が家にあった(母が保存していたんでしょう)古いアルバムにて叔母が1957年2月に現在の伊丹空港から飛行機で渡米した際の写真を発見。 あれ?ということは86年12月の電話での結婚30周年とは、翌年の87年に迎えるということだったのか・・・。 しかし、1950年代、アメリカ人と結婚してないと容易に渡米できなかったのなら、叔母はすでに正式に結婚していて、夫の後から渡米したということなのか・・? というのも、渡米時の写真にはアメリカ人の叔父は全く映っておらず、叔母一人での渡米だったんですね。 当時は飛行機のタラップまで空港からバスに乗って移動しなくてはならなかった。そのバスに乗る直前に一人で手を振る叔母が映っており、その写真に母が「さよなら!」って手書きでアルバムに書いていました。 「洋行」するって当時は大変なことで、私の母、その両親(私にとっての祖父母)、それ以外に友人知人ら大勢見送りに来てましたw それとも婚約していれば、正式な結婚以前でも渡米は許されたんでしょうか。 そこんとこは謎ですが、いずれにせよ、叔母は過去を振り返らない人でした。 それはアメリカで生きていくことに必死だったからだと思います。 2019年にS子叔母の息子2人(私の従兄弟)、長男のM(1964~)と、次男のK(1966~)が叔母の納骨(ごく一部です)のため、39年ぶりに来日しました。 その時に聞いたのは、叔母は自分の息子たちにも日本にいた頃のことや、家族のルーツなど、あまり話さなかったそうで、逆に私と兄は母からそれなりにいろいろ聞いていたので、MやKの知らないエピソードを伝えることができてよかったです。 MもKも英語のみで育てられたので、日本語は話しません。 このことをもっても、自分の息子たちはアメリカで育つならば完璧なアメリカ人にしたい、という想いを感じます。 ちなみにアメリカ人の叔父、ショーン(仮名/1929~2006)は、私は長年ただのアメリカ人(ってオイ!)だと思ってましたが、なんとモントリオール生まれの元カナダ人、しかもロシア系だったので、家庭ではロシア語で育ったそうです。 しかし叔父も息子たちにロシア語を教えることはなく、英語のみの家庭でした。 ちなみに1989年の2月、叔父が仕事でモスクワに行くことになり、当時はまだソ連時代ですから、アメリカからソ連に行くなんてこんな機会はめったにないからと、叔母も同行することに。 「せっかく(ロシア語の)通訳もいるしね」と叔母が言うので、何のことかと思いきや、その時初めてショーン叔父が実はロシア語ペラペラなことを知った次第ですw テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記 |
前回とは全く別の人の話。
以下は亡き母(昭和3年/1928年生)から聞いた話です。 なので話は昭和初期から始まります。 母の女学校時代の同級生、アヤコさん(仮名)は生後間もなく実父が他界。 それで実父の両親(アヤコさんの祖父母)は、 当時まだ学生だけど既に婚約していた実父の弟(アヤコさんの叔父)を急いで結婚させ、 アヤコさんは叔父さん夫婦の養女にし、実母は実家に帰してしまった。 これは時代ならではの「子供(跡取りとか忘れ形見的ポジションの子供)は絶対嫁に渡さない、家を出さない」という思惑と、 まだ若い嫁の将来をいくらか慮って・・・という可能性もなきにしもあらず?(だったのかも?) さて、その後、幸か不幸か叔父さん夫婦には実子がなかったこともあり、 アヤコさんは一人娘として大切に育てられた。 ・・・のだが、アヤコさんの中にも(前回の話のジローさん兄弟同様)実母に対する熱い想いというのがずーーーっとあったそうなんです。 しかし育ててくれた叔父さん夫婦に悪いと思って、叔父さん夫婦が生きている間は決して実母に会おうとはしなかったとのこと。 月日は流れ、アヤコさんが中年期にさしかかった頃に叔父夫婦が亡くなり、 その時に初めて実母に会いに行った。 この実母という方は、アヤコさんと離別後に裕福な方と再婚され、そこで子どもも何人かもうけられていた。 だからお金はあるんですね。 アヤコさんがやっとの想いで会いに行ったら、実母は「お金が欲しいんでしょ」って ポーンとお金が入った袋をアヤコさんに投げて寄越したと。 アヤコさんからすると「私はお金が欲しいんじゃないんだ!」 お母さんへの積年の思慕を胸に訪ねていったのに、 そのような仕打ちを受けて、愛情の持って行き場がなく、胸が張り裂けそうな思いがしたそうです。 私の母の解説では「やっぱり自分で育ててないから愛情がないんだろうねぇ」とは言っていたが、 いったいどういう了見だったのだろうか・・・? ・・・とはいえ、悪いことばかりではなかった。 アヤコさんは実母が再婚先で産んだ異父弟妹(きょうだい)と親しくなり、 アヤコさん自身がご主人に先立たれた後は、異父弟妹たちと一緒に旅行に行ったり、という交流があったとか。 |
このブログは基本音楽絡みの話をするところですが、書きたいことがあり、他に書く場所もないのでここに書きましょう。
現在、NHK朝ドラ「カムカムエブリバディ」を楽しく見ています。 すでに大まかなあらすじとして公になっていますが、初代ヒロインの安子は婚家先に娘を置いて渡米するとこのと。 今後どのような経緯でそうなるにせよ、安子が非難されることがないことを私は望んでいます(ドラマだしねw)。 さて、ちょっとそれと似たような話を思い出しました。 90年代後半に「嗚呼バラ色の珍生」(通称:バラ珍)というTV番組がありました。 最初は珍しい人生を送っている人にスポットを当てる、みたいな内容だったかもしれませんが、 次第に(珍生に伴うかのように)、行方(消息)不明になっている親族・友人・知人等の人探しメインの番組に。 以下に記す話は、なにぶんにも20年以上前のことゆえ、 多少の記憶違いはご容赦ください。 この番組に当時40代くらいの男性が生き別れた実母の捜索を依頼するために出演。 仮にジローさんとしましょう。 ジローさんは昭和25年(1950年)前後の生まれだったでしょうか? とにかく話は戦後間もない1950年代だったと思います。 ジローさんは幼少期に実父を亡くし、当初は実母と兄・イチローさん(仮名)の3人で慎ましくも幸せに暮らしていました。 しかし、その後実母はアメリカ人と結婚して渡米。 そのため、ジローさんは兄イチローさん共々、施設で暮らすことに。 そんな中でも兄弟は実母への思慕をずーーっと持ち続けていたとこのこと。 やがて兄弟は立派に成長し、独立、順調に暮らしていました。 が、三十代後半頃でしたか、兄のイチローさんが病気で早逝。 亡くなる前にイチローさんが「やっぱりお母さんに会いたかったなぁ・・・」と洩らしていたこともあり、 イチローさん亡き後もジローさんなりに実母を探してはみたものの、個人の力では限界があります。 そういった経緯で番組に依頼したと思います。 結果、アメリカで実母が見つかったんですよ。 たしかご主人はもう亡くなっていて、一人暮らしだったかな? ジローさんは番組スタッフと一緒に、はるばるアメリカまでお母さんに会いに行きました。 しかしカメラでの撮影は許可が得られなかったのでしょう、 番組では実母の住む家の遠景をバックに、音声の一部のみ公開されました。 で、どうだったかというと、予想に反して、バラ珍でよくあったような 「感動のご対面!」という感じでは全くなかったです。 番組で流れたのはジローさんが実母宅のドアをピンポンしてから、最初の数分程度の音声でしたけど。 実母はかなり淡々としていて、「よく来たねー」なんて歓迎する雰囲気はなく、 「どうしてここまで来たん?」という感じだったかと。 ジローさんには積年の胸いっぱいの想いがあったでしょうに、 ジローさんはジローさんで母の対応に出鼻を挫かれる・・・みたいな。 別に視聴者を満足させるために感動のご対面じゃなくてもいいけど、ジローさんがせっかく来たのに(そりゃ実母が頼んだわけではないにせよ)「どうして来たん?」はないだろー・・・と、当時は若干憤慨してしまいましたわ。 自分で育てていないと、あるいは実母からすると捨ててしまった子供なんてそんなものなんでしょうか・・・?? バラ珍とか、当時あった同類の番組では、やむを得ない事情で生き別れてしまった場合は、 それでも「片時も忘れたことがなかった」というパターンがほとんどの中、 こんなに冷淡ともいうべき再会は初めてでしたね。 それでも見つからなかった、会えなかった、というよりは ジローさんにとってあふれる想いがいくらか「雪解け」になってはいたでしょうけれど。 |
どうも、お久しぶりです。
ブログやめたつもりはないんですが、日々なかなかPCを開くこともなく、 かといってブログ書くならやっぱりPCでタイピングするほうが楽なんですよねー。 って、そんな中。 Styxの珍しい映像を発見して、自分の記録としても、 何よりStyxをお好きな方のためにも、どうしてもブログでご紹介したくなりました。 Styxの昔(70年代後半~80年代初頭の全盛期)のライブ映像って だいたい以下3つが代表的。 ①76年4月2日 Winterland @サンフランシスコ ②78年1月28日 同上会場 ③81年4月13日 Capital Centre @メリーランド州 ①と②は白黒で今は亡きWinterlandという会場は様々なバンドのOfficialライブ映像を記録していてくれた みたいで、スティクスのもその一つ。 ①はトミー加入後4ヵ月弱、76年10月リリースされたCrystal Ball 発売前、Equinoxツアー。 ②はGrand Illusionツアー。 ③は言わずと知れた最も成功したツアーであるパラダイスシアター。 セットリスト的には③が最も充実してるかな。 しかしそれ以外の彼らの姿をもっと見たい!と久々にyoutubeで検索かけたら 78年10月26日(Selland Arena/Fresno、CA)のPieces of Eightツアーの映像を発見。 ブートレッグ的な隠し撮りなんでしょうけど、それでもこれを残してアップしてくれた方に感謝感激です。 曲は以下の通り。時間は41:01. ①Great White Hope ②I'm OK ③Grand Illusion ④Fooling Yourself ⑤Queen of Spades ⑥Crystal Ball ⑦Suite Madame Blue ⑧Renegade(途中、故John Panozzoのドラムソロあり) ⑨Lady(ピアノイントロのみ) 曲によっては必ずしもフル演奏ではなく、 というか演奏はフルだったとしても、撮影された映像は途中までしかなかったりもします。 それでもカラー映像で当時の彼らのライブの雰囲気は十二分に感じることができると思います。 特に②とか⑤は今となってはなかなかライブで演奏することがないだけに、ましてや78年当時となると超貴重。 |
最近のStyxのライブ映像をyoutubeで覗いてみたら、なんと!かの迷作w「Mr.Robotto」を臆面もなくw演奏しているではないか。
アルバム「Kilroy Was Here」(1983)内の作品はこれまでたまーにメドレーに取り入れたりしたことこそあったものの、原則として通常のライブでまともに演奏されることが滅多にないアルバムの一つ。 30年以上経ってもトミーショウにとってこれは黒歴史なのか、たとえその中の自作曲であってもきるだけ演奏したくないくらい、忘れたい作品なのか、と思ってたのよね。 ま、たしかに今年はキルロイ発売35周年の記念(?)イヤーではありますけれど。 35年経って、やっとこのアルバム(の曲)に向き合える心境になったのでしょうか。 ミスターロボットをやるくらいなら、ほかにやるべき曲、もっとあるでしょうよ・・・と思わなくもないですがw 映像を見ると、案外盛り上がって楽しい気もするw 今年のバレンタインにスペシャル企画として、StyxのFacebookでトミーへの質問を募集して、トミーがビデオで答えてくれる、という企画がありました。 私ももちろん応募しましたです。 で、私の質問と似たようなことを訊いてくれてる人がほかにもいて、トミーはライブで演奏する曲について、定番曲以外に「マドモワゼル」「ミッドナイトライド」「ボートオンザリバー」「One With Everything」その他もろもろ、演奏したいと思ってると語っていました。 実際にそれらの滅多にやらない曲をどれだけ演奏するかはさておき、私はトミーたちのそういう気持ちがあることを知り、それだけでも大層満足しました。 そう、Styxのライブ曲って現在かなーり固定されてて、あまりに定番すぎて、サプライズが少ないというか、今年の1月末~2月頭にかけてラスベガスに行った時も、申し込みから実際のライブまで4か月以上、時間が経ちすぎていたことと、予想されるセットリストが定番すぎて、果たして自分楽しめるのかなー?といまいち気分が盛り上がりませんでした、アメリカに行く直前は。 ところが、いざライブを体験してみたら、定番曲だろうがなんだろうが、自分でも信じられないくらい大いに盛り上がれたんですけどね。 あと、謎なのがトミーがStyx加入前の曲が比較的よく演奏される。 特にStyxの三大「L」ソングともいうべき、「Light Up」、「Lorelei」、「Lady」・・・確かに盛り上がるし、意外とロックな曲たちではありますが、謎だw ささやかな夢として、いつかStyxがロックの殿堂入りしたら、さすがにデニスも呼ぶでしょ。 その時にThe Best Of Timeを演奏してほしい。いや、ほかにももっと演奏すべき曲はあるけれど。 新旧メンバーが一堂に会しての「最良の時」。これ、感動のひと時になりそうじゃないですか。 |